Choueke Family Residence

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Family Room
Yokohama-Ei
Shunso
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CAギャングズ

CA(カナディアン・アカデミー)にギャング?まさかあり得ない!そう思われて当然だ。時は1959年のことだった。9年生に進学した生徒たちは正式に高校生だと認められて伴なう名誉と優遇が与えられた。ぼくは違った。その頃まだ八年生だったぼくは、ジッグズ・コードロン、キース・シチダとジョン・ガレスピーの聖なる三者が教室から教室へ優雅に移動する姿 — 自信ありげに無頓着で、高校生風に教科書を無造作に片腕に挟んで — を羨望の眼差しで見ていた。またある時は連中はバスケチームのまばゆいユニフォーム姿で、いつでもオジ ジムのコートで命を投げ出す覚悟みたいにぼくには見えた。ある朝、ぼくは正門の下でミスター・ビショップの傍に立ちながら、先生の言うこと全てに同意して馬鹿面で薄笑いを浮かべたりしていた。先生に気を使いながら、本当はベルが鳴って釈放されるのを待っていた。その時、校舎へのコンクリート階段を肩肘張って登って来たのはジッグズ・コードロン、チャック・アスビル、スティーブ・ウォードとジム・ブラックバーンの連中だった。みな、揃いの同じジャケットをひっかけて。それは『アイゼンハワー・ジャケット』と呼ばれる、米陸軍の兵士が着るもので、まだ当時1、2件開いていたアーミーサープラスで手に入れた代物だった。連中がジャケットの襟を立て、白いTシャツをチャックの開いた胸元に覗かせて通りすぎた瞬間に、それまで尊敬のまなざしを送っていた周囲は一斉に息を呑んだ。ジャケットの後ろには白いフェルトのパッチがいくつもついており、ひとつのパッチに一文字ずつアルファベットが黒でつづってある。七年生をパスできたなら、なんとか読めたかもしれない…『セブン・イレブンズ』と書いてあった。文字は円を描くようにきれいに配置されていて、想像をかきたてるものだった。はたして『セブン・イレブンズ』とはどういう意味があるのか、明らかではない。けれども、毎週土曜日行われた映画館での教育(ぼくらの学校の狭い教育範囲を広げるため)のお陰で、これこそギャングなんだと分かった。普段なら何でもお見通しのミスター・ビショップがその場で一言も口にしなかったのが意外だった。これはおそらく先生がジッグズのことを特別扱いしていて、これから何が起こるのかまず見届けてから対処するつもりなんだとぼくは推察した。さすがに先生は衝動的に反応するのではなく、タイミングを見計らって最適な瞬間に一撃を入れるつもりだったようである。ぼくみたいな、まだハイスクールのステータスを手に入れてないひよっこには、これから起きる事は想像もできなかったのだ。

 

その前にまず説明することがある。毎年ぼくらの学園にはアメリカはじめ外国から生徒が転入して来るので、コウベという小さな世界の外側で起きている事をみんな意気込んでその転入生たちから教わっていた。映画の中で見たことをそのまま鵜呑みにする者も沢山いた。ジム・ブラックバーンはそんな一人だった。彼はハンサムだった。髪の毛は名前通りに真っ黒で、後ろに撫でつけてあって額にカールが一本下がっていた。彼の緑色の瞳は邪魔者がいたら射抜くかように威嚇的で、それが髪の毛で隠されないようにひっきりなしに手のひらで髪を撫でつけていた。これはすべて彼のイメージを一層ひきたてることだった。彼はエルビス・プレスリーにそっくりだったのである。いつも彼の周囲には危険な要素みたいなものがあった。その良い証拠は彼がいつも身から離さず持ち歩いていたナイフで、彼はそれはバヨネット(銃剣の先端につけるナイフ)だと言っていた。ダウンタウンにあるコーヒーショップ『セピア』で、ぼくはそれを実際に見せてもらい、触れたことがある。もっともジムはこのコーヒーショップのことを『ザ・ソフィア』だと呼んでいたけど、それを誰かが訂正とかまちがいを指摘したとしてもなんの得もなかった。セピアであれソフィアであれ、ジムの言うことは絶対だからだ。バヨネットさるものをぼくはそれまで見たことがなかったから、確かにそうだという確信はない。でも確信もっていえるのは、学園のカフェテリアには充分ナイフ、フォーク、スプーン類が揃っていて、こういったナイフの出番を必要とするステーキとかはメニューに登場することは絶対なかったのだ。それからひとつ不審な点は、なぜかこの公開された秘密集団にジョンとキースが含まれていないことである。勧誘されなかったのか?それとも誘いを断ったのか?バンドかスポーツ活動、それからたまには宿題のせいで時間がなくてか?答えは本人達しか知らないし、分からない。でも外部者にはこれが教会の分裂、三銃士の解散、それかバンドの解散のように見えたのである。どの可能性をとっても想像するには恐ろし過ぎた。

 

一昔前のコウベでは、情報は人伝えに知ったもので今時のインターネットより広まるのが速かった。たちまちにマリストブラザース 国際学校の一部の学生たちが、スーパークールな『セブン・イレブンズ』に対抗して、自分たちのギャングを形成して挑んできたのである。グループのリーダーは線路の下にある店に出向いて、黒のウィンドブレーカータイプのジャケットを買った。そしてそこから何軒か先にいつも木製のカウンターの前で黙々と(それこそ禅を組んでいるみたいに)座っている『オバサン』にジャケットを手渡した。実はこのオバサン、れっきとしたアーティストだったのである。彼女はまずチョークで布の上に図を描き、その上からミシンで縫った。一回の説明だけでオバサンはこのお客の要望に必要な工程をを把握した。ながったらしい話し合いはなく、時間を無駄にするようなおしゃべりもせず、照れくさい不必要な質問ももちろんなかった。値段は100エンで、タットゥーをするより安く、『アイ・ラブ・ジェイニー』なんて未発達な上腕の二頭筋に彫ったあとに彼女に船乗りか大学生にのために捨てられてその後一生後悔するよりずっといい。これは選択肢二つに一つの決断だった。お金さえ払えば、刺繍のほかオバサンに「ありがとうございました」と言われて会釈のひとつももらえた。ともかくそんな風に日本人はみんなとても礼儀正しいものだ。チョークで図を描くところからミシンに糸を通し取引の最後の礼儀まで、おそらく全部で2分くらいかかったことだろう。黒いデニムのジャケットのヨーク(切り替え部分)に、血みたいに真っ赤な文字でこの恐ろしい言葉がつづってあった。『ダッガーズ』、刃のことだ。当然このシロモノを学園に着て行けるはずがない。しかもマリスト学園での男子はファッショナブルなブレザーを制服としていた。それでも、電車に乗っている間にちょいと着替えれば(タカトリとサンノミヤの間)学園のブラザー・チャールズから呼び出しを受けることもなく問題は解消できた。ここで説明すると、ブラザー・チャールズの憤りに触れた場合、罪人の前には三つの道が開かれる。一本目の道。『ブルー・トークン』を一枚もらう。二枚貯まると、サヨナラだ。学園に戻って来れることはない。処罰にお情けがかかることは一切ない。おしまい、フィニート、カプット。当時日本のヒット曲のタイトル『片道切符のブルース』がぴったしだった。二本目の道は、教室のみんなの前で鞭打ちの刑。公平ではなきにしろこの方法は、勇気のあるもしくは狂人じみた者の犯行再発を妨げるにはひどく効果的だった。三本目の道。学園に現金による寄附金を納め、自白書を書く。反省の言葉と共に自己の無知さと若さ、他人からの邪悪な影響による行為の謝罪を含めば救済の精神に則って免除される。資金は反省の深さの証明になる。マリスト学園のギャングリーダーは他でもないアバス・ モンタジで、CA ギャングそして特にジム・ブラックバーンに匹敵した挑戦者であった。毎年幾たびも行われる学園内のファンドレイザードライブ(資金集め運動)で一度彼は拒否し、バチカンには充分なお金があるし他の信者から何十億ともらえるんだからぼくからの小銭集めなどに構うなと応えたことがある。この戦略が効いて、それ以来だれも彼には寄附の催促をすることはなかった。こんなふうに舞台は物語のクライマックスを間近に待つばかりとなったのだが、それまではミスター・ビショップの出番がまわってきていなかった。ミスター・ビショップのひと動きですべてが片付けられるのに時間はかからなかった。いきなりにしかも予期通りにお箱になった。学園内でのギャングの服装はもちろん、ギャング名のつづりを見せることも禁止になった。だれも驚かなかった。セブン・イレブンズという対抗相手をなくしたダッガーズは、しぼんで消えた。オバサンに刺繍してもらったこわい黒のジャケットはそうやってタンスの奥で虫喰いだらけになるか防虫剤漬けになるか、持ち主次第の運命となった。

 

数年後、ダッガーズかセブン・イレブンズに勧誘されるほどかっこ良くなくそれでも何かに属したい願望を持ち続けた何人かが、勇気を出してギャングなるグループを形成した。そのグループはナワウィ・ハサンが圧倒的な支持でリーダー役を、ほかにデビッド・アンダーソン、ドン・スワンソン、それからぼくがメンバーだった。ぼくらはギャングを保つため学園の権威たちを避けつづけた。やはりユニフォームがいるため、線路の下の店の並びからセーターを売る店を見つけ出した。セーターは黒地のVネックで、Vの端から細い赤色の縁がのぞいていた。特別な日にこの目立たない服を着て、ぼくらはお互いに対する兄弟心みたいなもの、なんだか重要ななにかの一員になった気がした。ぼくらは『ザ・ブラック・ドッグズ』を名乗った。セーターは特に人の注目を引かなかったから、しばらくの間活動は安全だった。活動というのは放課後にオオサカに繰り出して、この黒いセーター姿でナンバかシンサイバシにあるコーヒーショップに行くことである。これには二つの目的があった。一つ目はタフガイに見えることだったが、これはぎこちない不恰好な16歳が達成するには限度があった。仕方なくぼくらは二つ目の目的に進み、それは誰も知らないオオサカの町で女子をひっかけようとしていた(結局ぼくらの知名度は上がらなかったけど)。ぼくらは自称『ブラック・ドッグ』流のコーヒーの飲み方もあった。それとは、まずブラックコーヒーに角砂糖をいくつか落としてスプーンでかきまぜる。コーヒーがカップの中で渦をまいている間、コーヒーと出てきたシンブル(指抜き)くらいの大きさの金属製のカップに入った冷えたクリームを丁寧に注ぐ。コーヒーの表面に、冷えたクリームの層が浮かぶことになるのだが、ここでコーヒーを一口飲むと、熱いコーヒーと冷えたクリームの感触を味わえる。我ながら洒落たもんだと一同は満足しきっていた。ぼくらにほんの少しでも興味を持ってくれる女の子だったらぼくたちはオーケーで、オオサカ市外に住む子もいたからぼくら同様、コーヒーを飲んだ後に帰宅の時間を気にするタイプの子達が多かった。しばらくこんな事を続けるうちにオオサカに繰り出すのが面倒になってきた。目的が二つとも達成できなかったので無理もない。そのうち学園でもぼくらが『ブラック・ドッグズ』という怖そうな名前のギャングだということが知れ渡ったが、その理由は自分たちが言いふらしたためだった(一応相手には秘密にするよう誓わせといた)。女子たちの中でこの秘密にあまり感心しなかった連中は僕たちの事を別名『ブラック・ラッツ』、どぶねずみと呼んだ。そんな名前をつけられ明るい将来も見えなかった『ブラック・ドッグズ(ラッツ)』はその後解散し、CAのギャング時代は幕をとじた。

   
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